視点

リアルタイムであることを再考する

2021/11/10 09:00

週刊BCN 2021年11月08日vol.1898掲載

 東京五輪・パラリンピックが終わり、数々の感動と違和感を残していった。私にとっての違和感の一つはセレモニーにおける会場スクリーンに映し出された映像が、直接自宅のテレビモニターに映し出されたことだった。

 実際に会場に観客を入れている場合であれば、会場スクリーンに映し出された映像をカメラが映していたのであろうが、今回の大会は無観客。いわばテレビの前が現場である。したがってテレビ局は会場に流れる映像の信号を直接受けて放送に流した。

 本当にいま少し離れた東京でこのイベントは行われているのか、どこか巨大なスタジオで撮られたものではないのか、少し前の時間のものではないのか――そんな疑問さえ抱いた。

 あるテレビ番組で出演者の手話を通訳するため、30秒の遅延を作って流していた。通訳の精度が時間の余裕を持たせることによって格段に上がり、とてもスムースに他の出演者との会話が進んでいるように見えた。

 私たちは、これまでリアルタイムにこだわりすぎていたのではないだろうか。リアルタイムが素晴らしく、事前に録画されたものは価値が劣るとしてこなかっただろうか。

 聞く側の都合で好きな時間に好きな分量だけ、好きなスピードで視聴する。とても快適だ。移動する時間もかからず密にもならない。

 他方、同じ場所に全員が集まり同じ時を過ごすことにも価値がある。そこでその瞬間しか感じられないものもある。コンサートのライブなどはその典型だ。いかに高精細の映像を低遅延で見られたとしても、その会場の雰囲気にはなれない。かなわないのではなく、違うものなのだ。

 先日、知り合いのバレエ団の代表から公演のライブ中継について相談を受けた。感染症予防で会場は無観客なため、ライブ中継を行うにはどうしたらよいだろうと。観る側に立って、どのような映像が流れると感動が伝わるのかを考えてみた時に、公演自体はライブでなくても良いのではないかと提案した。事前に数台のカメラで分けて撮って編集し、解説を織り交ぜながら映像を流す。会場での鑑賞ではできないことだ。

 気軽に集まることができない今だからこそ、リアルタイムであることで犠牲にしてきたことと、アーカイブの有用性を考える時ではないだろうか。

 
サイバー大学 IT総合学部教授 勝 眞一郎
勝 眞一郎(かつ しんいちろう)
 1964年2月生まれ。奄美大島出身。98年、中央大学大学院経済学研究科博士前期課程修了。同年、ヤンマー入社、情報システム、経営企画、物流管理、開発設計など製造業全般を担当。2007年よりサイバー大学IT総合学部准教授、12年より現職。NPO法人離島経済新聞社理事、鹿児島県奄美市産業創出プロデューサー。「カレーで学ぶプロジェクトマネジメント」(デザインエッグ社)などの著書がある。
  • 1