IT業界のグランドデザインを問う SIerの憂鬱

<IT業界のグランドデザインを問う SIerの憂鬱>第25回 シグマプロジェクトの本質

2007/10/01 16:04

週刊BCN 2007年10月01日vol.1205掲載

 その成果をどう評価するかは別として、「ソフトウェア生産工業化システム」(いわゆるシグマプロジェクト)が意味したのは何だったのか。そしてそれはどのような要因で「失敗」に至ったのか。およそ20年を経た今日的な視点で振り返ったとき、そこから情報化施策を所管する中央官僚やソフトウェア工学会、SI業界は何を学ぶべきか。売上高は伸びているのに利益が縮小する“ねじれ現象”、IT技術者の質と量の乖離といった課題は、実は、経産省やSI業界がシグマプロジェクトを「なかったこと」にしたところに起因しているのだ。(佃均(ジャーナリスト)●取材/文)

理解しなかったSIer

国策として進められた開発計画


 確認の意味で、改めてシグマプロジェクトとはどういうものだったのかを整理しておこう。そのためには若干の補足が要る。それは何かというと、通産省(現経産省)の大型プロジェクトだったということである。

 古い話だが、大型プロジェクトの原点は1966年度にスタートした「超高速電子計算機長期研究開発計画」にさかのぼる。その前年の4月、米国で「IBMシステム/360」という電子計算機が発表された。通信機能を備え、アプリケーション・プログラムを入れ替えるだけで事務計算にも技術計算にも適用できる電算機で、その名は「全方位・360度対応」という意味を持っていた。

 64年10月、通産省重工業局電子工業課(後に電子政策課と電子機器電機課に改組)の課長に就任した戸谷深造氏は、電子工業審議会に「電子計算機工業の国際競争力の早急に強化するための施策如何」を諮問、翌年4月の答申を受けて施策を練り上げていった。その成果として発足したのが大型プロジェクト制度である。

 66年度にスタートした最初の大型プロジェクト「超高速電子計算機長期研究開発計画」は、国産電算機メーカー6社(日本電気、日立製作所、富士通信機製造、東京芝浦電気、三菱電機、沖電気工業)が結成した共同組合を中心に進められ、これが70年10月の国産メーカーの3グループ化につながっていく。

あたかもDIPSの熱気


 一般に、シグマプロジェクトは「ソフトウェアを対象にした初の大型プロジェクトだった」とされるが、それは半面で間違っている。65年にスタートした超高速電子計算機長期研究開発計画で重きが置かれたのは、次世代コンピュータ・アーキテクチャとOSなど基本ソフトだった。戸谷氏はそのために官民合同の日本システム開発研究所、民間拠出の日本ソフトウェアを設立している。

 このうち日本ソフトウェアは超高速電子計算機長期研究開発計画の終了とともに解散したが、民間拠出による国策ソフトウェア技術研究機関というコンセプトは、75年に設立された協同システム開発(JSD)に引き継がれた。ここでプログラム・モジュールと構造化設計の技術研究が行われたことは、前号で触れた通りだ。

 シグマプロジェクトには、85年4月から90年3月末まで、5年間・総額250億円の巨費が投じられた。プロジェクトは情報処理振興事業協会(IPA)が所管、開発本部は東京・末広町に置かれ、NTTデータ通信本部(現NTTデータ)の辻岡健氏が本部長に就任した。コンピュータメーカーばかりでなく、受託系ソフトウェア会社が研究開発要員を出向させ、スタート初期の開発本部は熱気に満ちていた。

 それは60年代末から70年代にかけて電電公社が取り組んだデータ通信用コンピュータ「DIPS(Dendenkosya Information Processing System)」の開発プロジェクトに通じるものがあった。複数の異なる企業に属するITエンジニアが、渾然一体となってシグマという共通テーマに取り組んでいた。OSからミドルウェア、システム間インターフェースなど基本システムについて、技術者たちが熱い議論を繰り広げたものだった。

 海外からも注目されたこの国家プロジェクトに陰りをもたらしたのは、システムのベースとしたUNIXの仕様統一問題が浮上したことだった。UNIXの仕様統一はそれまでにも懸案だったが、80年代の後半になって登場したワークステーションの市場拡大が、AT&Tベル研究所が提供するUNIXシステム・リリースV(SRV)と、ライセンスフリーのBSD(カリフォルニア大学バークレー校)版の対立が鮮明になってきたのだ。

 情報産業界は「UNIXの本命はSRVかBSDか」で持ちきりとなり、コンピュータメーカーの色分けが始まった。IBM、富士通、日立、日本電気といった主要なメインフレームメーカーばかりでなく、サン・マイクロシステムズやアポロコンピュータ、オラクルのような当時のベンチャー企業がどちらの陣営に組するかが最大の関心事になった。プロジェクトの事業会社、シグマシステム開発本部も「標準化の方向性が見えないと、今後の方針が定まらない」とすら公言し始めた。

エース級から2番手、3番手に


 もう一つの障害として持ち上がったのは、各社が出向させていたIT技術者を引き揚げにかかったことだった。むろん交代要員を用意してプロジェクトへの関与は継続したが、初期に投入された技術者はC言語を巧みに操ることができるエース級だったのに対し、交代要員は2番手、3番手だった。折りから都市銀行を中心に大規模なシステム開発案件が相次いでいて、受託系ソフト会社はシグマプロジェクトに投入していたエース級の技術者を現場に回したほうが有利と考えたのだ。

 ただ、このような内部事情は、最初の2年間はなかなか表面化しなかった。決定的だったのは、プロジェクト開始から3年が経ち、いよいよシグマセンターを立ち上げる段取りに入った88年の春である。あれこれの押し問答があった末、通産省とシグマシステム開発本部は、システムの運用コンピュータに国産メインフレームを使うことを決めた。

 当時、学術的な立場からシグマプロジェクトの全体設計に関与していた鳥居宏治氏(現奈良先端技術大学院大学)やSRAの岸田孝一氏(現SRA先端技術研究所)などは、UNIXを全面採用したネットワーク型の分散開発を構想していたので、センターマシンにメインフレームを使うというのは「先祖返り」にほかならなかった。それではウォーターフォール(滝)方式で大量の技術者を投入する労務提供型のシステム開発を地方に分散するだけではないか、と彼らが憤ったのも無理はない。

 国産メインフレーム・メーカーがシグマセンターに自社製品を採用するよう通産省に働きかけ、それが通ったのは、今からみるとメインフレームメーカーの最後の意地だったように思えなくもない。UNIXワークステーションやパソコンは、市場に大量供給されるプロセッサとOSで組み立てられ、米国ではリチャード・ストールマンがフリーソフトウェア財団(FSF)で「コピーレフト」を叫んでいる。メインフレームが「時代遅れの恐竜」になることを、メーカーは恐れたのだ。

 だが、シグマプロジェクトの失敗はメインフレームメーカーに責任がある、とは言い切れない。それも一つの要素だったかもしれないが、大きな原因は受託系ソフト業にあった。ソフト業はプロジェクトに参加していながら、その本質を理解していなかったのだ。
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