IT業界のグランドデザインを問う SIerの憂鬱
<IT業界のグランドデザインを問う SIerの憂鬱>第21回 OSSが示すメビウスの輪
2007/09/03 16:04
週刊BCN 2007年09月03日vol.1201掲載
4年で利益はゼロに収れん
実態は「生かさず殺さず」
2006年の4月から今年の3月末までに1事業年度の通期決算を公表したICTサービス業453社(連結子会社を含めると約3000社)の業績を集計すると、売上高は22兆7302億9900万円で前年度比6.25%増、対して当期利益は1兆998億7200万円で同19.61%減だった。このうちソフトウェア受託開発業は156社で、売上高は4兆1662億5700万円で4.69%増、当期利益は992億3200万円で24.37%減だった(IT記者会調べ)。
売上高が増えているのは、大手企業の業績回復を背景にしたIT化需要の増加を示している。しかし「空前の追い風」(情報サービス産業協会)といわれるなかで当期利益が2割以上も減っているのはなぜなのか。利益率はICTサービス業全体で2.85%、受託開発業は2.38%と3%台を割り込み、毎年2割前後減少していく。この状況が4年も続けば、利益はゼロになってしまう。
売上高が増えているのだから、ユーザーはICTサービス業(本論でいえば受託型SIer)の価値を前向きに認めている。一方、利益が減少しているのは、受託型SIerの経営がよっぽど下手ということだが、それならユーザーがその価値を前向きに認めるとは思えない。では価値そのものが認められていないかというと、売上高がそれを否定する。
この矛盾を明快に解きほどく説明は、現在までのところ成されていない。そこで偏見を承知で断言すれば、ユーザーは、受託型SIerを「便利に使っている」に過ぎない。つまり「生かさず殺さず」ということだ。突き詰めれば「たかがプログラムを作っているだけではないか」ということにほかならない。
1960年代、ソフトウェア受託開発業の黎明期には、コンピュータのプログラムを作るということは神業のように受け取られた。例えば日本コンピュータ・ダイナミクス(NCD)の下條武男氏(現会長)は、NHKの視聴率調査システムのプログラムを1週間で作り上げ、1回のテストもなく動かした。受注したコンピュータメーカーが「バンザイ」した後始末だった。
「当時はシステムが単純で、規模も小さかった。だから徹夜でプログラムを書き、私が寝ている間にデバッグして本稼働に滑り込むことができた。そのようなことは、いまはとてもできる状況にない」
だが、同氏がユーザーやコンピュータメーカーから「神様」と称されたのは、プログラムを作ることができたからではない。ユーザーの要求を的確に理解し、それを実現する完璧なロジックを組み立てることができたからだった。そうであればこそ、のちに同氏はアラビア石油からの要請を受けて、サウジアラビア・カフジ油田に設置されたコンピュータ(IBMシステム/370)のプログラムを日本で作ることができたのだ。
あるいは、東京データセンター(現TDCソフトウェアエンジニアリング)の創業者・野克己氏(04年4月物故)が、「コンピュータ・プログラムを作ること」で富士通から得たのは、実は「プログラムの形になった知的生産物」の対価だった。これを端緒として、コンピュータ・プログラム作成業は「ソフトウェア業」の名を獲得していく。
労務対価の「易き」に流れる
70年代に入っても、多くのユーザー企業はシステム開発の発注額をいくらにすればいいのか、分からなかった。受注する側にも、ユーザー企業を納得させる積算の手法がなかった。
「日本初のソフト受託営業マン」となった鈴木義矩氏(元SRA専務)は、当時を次のように語る。
「プログラマが1時間に何ステップ記述できるかを測って、それで給与額を割ってステップ当りの単価を出す方式は、当時もありました。しかしそれはあくまでも生産性を測るための社内資料で、受注額を決めるためではなかった」
では、積算書はどのように組み立てられていたのか。投入するプログラマの時間単価をベースに、現状分析や要求定義、システム設計にかかる工数から割り出される係数をかけ、さらにドキュメントの作成や技術教育などにかかる費用を積み上げていったのだ。
SRAが編み出したこの方式は、またたく間に草創期にあったソフトウェア受託開発の専門会社──コンピュータアプリケーションズ、日本コンピューター・システム、日本タイムシェアなど──に広まっていった。ユーザー企業はソフトウェア業を知的産業と認識し、通産省も脱工業社会を担う未来志向の知識集約産業と位置づけた。
メインフレームによる集中処理型情報システムの需要が急増した80年代、ソフトウェア受託開発業は売上高で情報処理サービス業を逆転し、情報サービス産業の主役の座についた。このとき業界は、労務対価を請求すればユーザーは経費で処理でき、仕事を発注しやすくなることを理解した。
大手のユーザー企業やコンピュータメーカーがソフト会社の技術者を集め、1時間当りのステップ数をチェックすることが珍しくなくなっていく。当初は発注に当たって、プログラマの力を評価するのが目的だったが、それが発注価額と結びつくのは時間の問題だった。そうやって発注価額を決めてもらうほうが、ソフト会社にとってもメリットがあった。責任を取らなくて済むからだ。
そうこうするうち、プログラムを作ることが「ソフトウェア業」の本体とすり替わった。プログラマには、より早く・より多くのプログラムを作ることが要求され、ロジックを考えることは不要とされた。システムを設計し、ロジックを組み立てるのは、発注者の仕事という暗黙裡の了解が形作られていく。
さらに80年代の後半、投入資金100億円/投入要員1000人月/開発プログラム100万キロステップ超の大規模システムの開発が相次いで発注されたとき、ソフト業界はプログラムを作るより要員を派遣するほうが簡単だということに気づいた。「目と鼻と耳がついていれば誰でもいい」という乱暴な要員採用が、業界の一部で行われた。ソフトウェア業は「ソフトウェア業」であることを自ら放棄し、メビウスの輪の矛盾に落ち込んでいった。
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