視点
「どこかで誰かが…」の恐ろしさ
2007/02/26 16:41
週刊BCN 2007年02月26日vol.1176掲載
電車がホームに入ってくる。ホームにはドアがあって、電車が完全に停止すると、電車のドアと同期して開く。「ホームドア」と呼ばれ、あちこちに備えられている。ある制御システムのメーカーが、自社の技術を示すテレビCMに使っていたのは10年ほど前だったか。そのときバックに流れたのは、「どこかで誰かがうまくやってくれるんだろう」だった。
どこかで誰かが……は、ホームドアに限ったことではない。銀行のCD/ATM、駅の自動改札、携帯電話、インターネット、電子炊飯器、交差点の信号機、電子ロック、カーナビetc。見渡せばいくらでもある。
ITにかかわる人たちは、そこそこ推測がつき、現代人は不思議にも感じないが、ゼンマイ仕掛けのからくり人形に驚いた時代の人にとっては魔法に見えるに違いない。こう言うと、江戸時代の人は科学的な知識や推論能力が劣っていたように聞こえるだろうが、それはとんでもない高慢な誤解なのだ。
暖冬で雪が極端に少ない。スキー場が困るという程度の問題ではない。山に積もった雪が解けて大地に染み込み、それが湧き出して水田を潤す。大きな川がない新潟の魚沼地方では、早くも今夏の水不足が懸念されている。あるいは土が凍らないので雑菌が死滅しない。凍っては解け、解けては凍る繰り返しが畑の土を柔らかくし、春に種をまく準備を整える。そのようなことに現代人はトンと疎い。
同じように、スーパーに行けば発泡スチロールの皿に乗った魚の切り身が売られている。そのせいか、魚がどういう姿かたちで泳いでいるのかを知らない子どもが増えている。野菜売場に季節はずれのカボチャやナスが並んでいるのは、外国から輸入されているからだ。
IT化とは、「どこかで誰かがうまくやってくれる」ことでもある。それに慣れると、自分の力で何かを解決することができなくなる。それどころか、自分で何とかしようとさえしなくなる。
本物を知ること、その怖さを理解することが、生活の豊かさにつながるIT化といえるだろう。
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