人ありて我あり~IT産業とBCNの昨日、今日、明日~
<人ありて我あり~IT産業とBCNの昨日、今日、明日~>連載9 青空文庫をはじめた富田倫生氏
2006/12/11 16:04
週刊BCN 2006年12月11日vol.1166掲載
WWWを教えてくれた西 和彦氏
■人類の叡智を電子で公開「富田さんは、最も早くインターネットの可能性に気がついていた人だと思う。BUSINESSコンピュータニュース紙1996年7月1日号の『視点』で、パソコン創世記の電子出版を計画、関連するサイトにリンクを張る過程で、紙では決して実現できない世界がみえてきた、と書いている。この頃、彼と会うといつもインターネットの話になった。97年夏には『青空文庫』というとてつもない試みに挑戦を始めるが、なぜなんだと聞いたことがある。その時、2つの話がものすごく印象に残っている」と奥田。
青空文庫。富田氏など4人の有志が97年夏にはじめた、著作権の切れた作品を電子化して無料公開していくという試みである。
「青空文庫の構想を温めだした時、聖書の最初の活版印刷を見たくて、グーテンベルク博物館に行ったというんだ。彼が言うには、聖書はそれまで手書きだったので、高価であり、ほとんど神父しか持てなかった。その神父たちは、独自の解釈をして布教、たとえば免罪符を編みだした。一般市民は、神父が言うんだからということで、お金を出したが、実質的な徴税だ。そうしたなか、グーテンベルクが印刷機を作り、1412年に聖書を刷った。印刷機が普及するにつれて聖書は安くなり、一般市民の手にわたりだしたが、読んでみると神父たちの言ってることと違うぞ、と気がつきはじめた。これが宗教改革に結びついていった。手書きの聖書、活版印刷による最初の聖書を見ながら、デジタルコンテンツ化を考えていたが、私たちのやろうとしていることは、最初の印刷機の登場と同じだなと思えるようになった。インターネットは、活字という形で蓄えられてきた知の保存、伝達の世界に新たな革命をもたらすと確信を持つことができた、というのだ」
「活字だけだと、たとえば古い本は図書館に行かなければ見ることはできないかもしれない。そうではなく、電子化して無料公開すれば、関心のある人は誰でも見ることができる。眠らざるを得なかった知の共有、これこそインターネットの一つの活用方法だ。ただ、最初のうちは底のみえない大きな底なし沼に、小さな石をちゃぽん、ちゃぽんと放り込んでいくようなものだろうな。でも、いつの間にか、底のほうにうっすらと堆積した石が見えてくるはずだ。そうなれば、新しい世界が生まれる。インターネットという新しい世界で、知の保存、伝達、共有の面で何らかのお役に立ちたいと。私は感動した」と奥田は振り返る。
その青空文庫、11月28日現在の収録作品数は5810という莫大な数に達している。
「無料公開だから、収入は限られている。ほとんどボランティアで、97年頃は、いまの収入は週刊BCNの『視点』の原稿料だけと言っていた。身体があまり丈夫でなく、一方、奥さんのほうは通訳の世界で名前を知られた人と聞く。髪結の亭主を決め込み、自分は関心のある世界だけに突っ込んでいく、こういう生き方もあるんだなー。やってることが凄いよね。与謝野晶子の源氏物語全巻がただで読める。世の中を変える力を持っていくだろうな」
■Webって、知ってる?
インターネットといえば、奥田に最も早くその存在と可能性を教えてくれたのは西和彦氏だったという。
「90年代のはじめだったと思うが、ネットワークの強化を図るためVAXを入れたんで一度見に来てよと言われて、アスキー本社を訪ねたことがある。その時、彼が奥田さんWWWって知ってる?と尋ねてきた。知らないと答えると、ワールド・ワイド・ウェブといって、メールなどが可能になり、通信に革命をもたらすだろうと話してくれた。これがインターネットの存在を知った最初だった」と奥田。
その数年後、「西さんが大学教授になる前後だと思うが、当社を訪ねてきたことがある。それで、社旗を見て、あれーいい旗持ってるなー。これってWebそのものじゃないかって、褒めてくれた」。「Webってクモの巣のことなんだけど、知ってた?」という注釈付きだった。
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