人ありて我あり~IT産業とBCNの昨日、今日、明日~

<人ありて我あり~IT産業とBCNの昨日、今日、明日~>連載6 ATOKの無償公開に哲学をみた

2006/11/20 16:04

週刊BCN 2006年11月20日vol.1163掲載

 ジャストシステムの浮川和宣社長とは85年から親しくつき合うようになった。ATOKの「無償公開には驚いた」が、奥田喜久男(BCN社長)はそこに「浮川さんの哲学をみた」という。

ジャストシステムの浮川和宣社長

■“親指シフト”は絶対にやらない

 奥田が、ジャストシステムの浮川和宣社長と親しく話をするようになったのは、1985年のCOMDEXツアーに参加した時だった。米国のラスベガスで毎年秋に開催されるCOMDEXは、当時世界最大のコンピュータショーとして知られ、コンピュータ・ニュース社(当時の社名)も85年に第1回目の独自ツアーを組んだ。

 その年の参加者は約10人。そのなかに浮川社長もいた。ジャストシステムの設立は81年6月。84年12月にIBMのパソコン、JXシリーズ用に「jX─WORD」を発売してワープロソフト市場に参入、85年2月にNEC PC─9800シリーズ対応の「jX─WORD太郎」、8月に「一太郎」を発売している。

 「85年のCOMDEXは11月20─24日に開催された。一太郎の発売直後で、まだフィーバーするところまではいってなかったと思うが、浮川さんは手応えを感じていたようだ。ラスベガスのホテルで話し込んで、しっかりした考え、自分の哲学を持っている人だなと感じた。そこで、帰国してすぐ、徳島の本社まで飛んでいった。その時の会話でいまでも強く記憶に残っているのは、“うちは親指シフトは絶対にやらない”という言葉だ。なぜ?と聞くと、親指を使えない人だっているんだから、というのが答えだった。ワープロっていうのは鉛筆の代わりになるんだ、だからこそ、誰でも使えるようにしなければならない、と強調していた」と奥田は振り返る。

 専用ワードプロセッサの第一号機は78年に東芝が発表した「トスワードJW─10」で、価格は630万円だった。翌年春に発売するが、当時のコンピュータ部隊はパソコンよりも専用ワープロのほうを重視しているところが多く、80年代初期にはコンピュータメーカー、事務機系メーカー、家電メーカーなどが入り乱れて専用ワープロを商品化していった。すさまじい小型化、低価格化競争が展開され、84年にはポータブル機が登場、市場は急拡大していった。国内出荷台数を見ると、85年はパソコンが119万台、専用ワープロは99万6000台だったが、86年にはパソコン124万台に対し、専用ワープロは216万7000台と逆転、以後92年まで専用ワープロ上位の時代が続く。

 その専用ワープロの世界で、富士通が打ち出したのが親指シフトキーボードだった。「書くより速く打てなければ意味がない」との発想から生まれた商品で、キーボードに独特の配列を取り入れ、親指で変換操作をさせることにより、高速入力を実現していた。

 「ワープロはタイプライタと同じなんだから速く打てなければならない」「いや、鉛筆代わりなんだから誰でも使えることが大前提だ」という対立は、意外に早く決着するが、そのきっかけとなったのは86年に登場した一太郎Ver.2であった。「一太郎を使うためにPC98を買う」という時代を迎えることになる。

■コンピュータの可能性をより多くの人に

 「ATOKの無償公開という決断にもビックリした。FEP(日本語入力システム)というのは、技術の核心部分だと思うけど、それを公開してしまった。ワープロというのは便利な道具であり、ユーザーの可能性を広げるツールだ。その可能性を一日も早く多くの人に試してもらいたい、という哲学を背景にした措置だったと理解している。その後の経過としてはワードにあっさり天下を取られるが、マイクロソフトのワード上でATOKを使い続けている人は多いんじゃないかな。ヴァル研究所の島村さんにも感じたが、より多くの人にコンピュータの持つ力を活用してもらいたいという発想がまずある。こうした理念、哲学を持っている人、企業は強くなっている」

 記者として業界を観測してきた奥田の経験則だ。

 その奥田がいま主張しているのは、「ハードもソフトも、もっともっと海外に出ていこうよ」ということ。「日本のソフトが海外に進出するという点では、浮川さんのxfyのテクノロジーは非常に興味深い。頑張っていただきたい」とエールを送る。(石井成樹●取材/文)

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