人ありて我あり~IT産業とBCNの昨日、今日、明日~
<人ありて我あり~IT産業とBCNの昨日、今日、明日~>連載5 コンピュータの大衆化めざした先覚者
2006/11/13 16:04
週刊BCN 2006年11月13日vol.1162掲載
ヴァル研を創業した島村隆雄社長
■「パソコンは電子の紙だよ」初期の頃のコンピュータ・ニュース紙で取り上げる記事はほとんどパソコン関連。一方、広告スポンサーの大部分はオフコンメーカーだった。「創刊して2年目くらいだったかな。久田さん(内田洋行の久田仁氏)に“俺たちはパソコン業界に塩を贈る役回りなんだ”と苦笑混じりに注文をつけられた」と奥田。
新聞創刊時に奥田は、オフコン業界には多くの人脈を抱えていたが、パソコン業界での人脈はないに等しく、その拡充に全力を上げていた。
そうしたなかで、意気投合した一人がヴァル研究所を立ち上げた島村隆雄社長だった。「最初は小林一作さんの紹介だったが、気が合い、よく飲むようになった」。
島村氏は、パイオニアのコンピュータ室でメインフレームの面倒をみていたが、「コンピュータはもっと使いやすくしなければならないし、できるはずだ」と考え、1976年に独立した。76年はNECの半導体部門がマイコン組み立てキット「TK-80」を発売した年だから、いわばパソコンベンチャーの草分け的存在である。仕様書記述言語SPECL-1など開発ツールで創業、83年には8ビットパソコン用の統合ソフト「パピルス」、翌84年には16ビット用の「ぱぴるす」を発売した。
「パピルスの発売前後、よくオフィスを訪ねてきてくれた。必ず、真澄酒造のお酒とスルメを持ってきてくれて、冬にはだるまストーブの上でそのスルメを焼いて食べながら、いろいろな話をした。早稲田大学の理工学部を卒業する年、同級生の山田靖二氏と、ある自動車メーカーを説き伏せてハバロフスクからヨーロッパに3か月の自動車旅行をした時の話なんか印象に残ってるな」
「パソコンは新しいコンセプトを持った電子の紙だ、パソコンを使うことにより、これまでの紙の特性をさらに進化させることができるソフトを開発するんだ、と常々言っていた。製品名は社内公募したが、パピルスという応募があり、即座にそれに決めたそうだ。電子の紙・パソコンを自由に使いこなすソフトに、最古の紙・パピルスという名前をつける、その時代的なミスマッチが気に入った、といっていた。エジプトに凝り出すのはこの後だった」
■アプリケーションソフトでパソコン化ける
当時の業界事情をちょっと振り返っておくと、NECが16ビットのPC-9801を発売したのが82年9月で、これを契機にパソコンはビジネス市場でも認知され、急拡大の様相を示すようになった。アプリケーションソフトも徐々に増えはじめ、米ロータスが表計算ソフト「1-2-3」を発表したのが82年11月、日本ではシステムハウスミルキーウエイが98用の財務会計システムを83年2月、管理工学が日本語ワープロソフト「松」を9月に発表している。BASICでプログラムを書いて命令を与えなければ使いものにならない点が、パソコンの最大の弱点とされてきたが、アプリケーションソフトの登場でその弱点が克服されだしたわけである。
島村氏もアプリケーションソフトの可能性を見抜いていた一人であり、「コンピュータを誰もが使えるようにするために、スリー・レスを主張していた。コマンドレス、マニュアルレス、トレーニングレスで、パピルスはその第一弾だと位置づけていた」。
86年には「駅すぱあと」の前身、「首都圏電車網最短経路案内システム」を発表するが、「その話も嬉しそうにしていた」と奥田は振り返る。「学生にストップウォッチを持たせて、A駅とB駅の間は何分かかるかという平均を調べているんだ、と聞かされた。何をつくるのかと尋ねても、それは内緒と教えてもらえなかった」。
同氏は、97年6月11日に、食道ガンのため死去した。55歳だった。「本当に惜しい人を亡くした。日本のソフト業界を変えうる力を持っていた。夢を持ち、その夢を全力で追い続け過ぎた結果、命を縮めたのかも知れないが、私も夢を追い続ける島村さんの姿を手本として見習っている」。
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