人ありて我あり~IT産業とBCNの昨日、今日、明日~

<人ありて我あり~IT産業とBCNの昨日、今日、明日~>連載4 「流通を制するものは市場を制す」

2006/11/06 16:04

週刊BCN 2006年11月06日vol.1161掲載

 情報処理産業の本質を小林一作氏に学び、流通の大切さを久田仁氏に学んだ奥田喜久男(BCN社長)に、データの重要さを教えてくれたのはIDG Japanの社長だった荻野雄二氏とIDGの創業者であるパトリック J.マクガバン氏だった。(石井成樹●取材/文)

つくる人と売る人を結ぶ

■売る人の本音を反映させる

 創業して、もっとも心を砕いたのはどんな紙面をつくるかだった。対象にするのはパソコンに決めていた。

 「パソコンはオフコンに比べて格段に安い。さらに安くなるだろう。訪問販売系のディーラーも扱うだろうが、店頭系の販売店も大量に入ってくるだろう。全国のオフコンディーラーを歩いて分かったことは、勝敗を決する最後の決め手になるのはディーラーの量と質だという点だった。パソコンだって同じだろう。しかもパソコンの場合、訪販系ディーラー、店頭系販売店が入り乱れての戦いになるはずだ。つくる人、売る人、使う人という構図のなかで、使う人は当面視野から外し、つくる人、売る人をつなぐ新聞を発行しよう。とくに、売る人たちの本音の話を取り上げるページをつくっていけば、読者もつくはずと考えた」と奥田。

 創刊号の発刊の辞で、「代理店販売網を制するメーカーがコンピュータ市場を制する」と冒頭に書いているのは、こうした発想から生まれたのである。後に、もう少しスマートに「流通を制するものは市場を制す」と言い換えるようになった。

■定量データで語る

 「数値」も重視した。「定量データで業界を見ることは絶対に必要だ。きちんとしたデータを元に記事を書けば、読者の信頼度は大幅に高まる」と考えていたのである。

 なぜそう考えるようになったか。1970年代後半にIDG Japanのオフコンのシェア調査を手伝っていたことが大きく影響している。

 日本電子産業振興協会(以下電子協、現在はJEITA)は77年にオフコンの自主統計データを取り始めるが、「数字がおかしい」という声を奥田はしばしば聞くようになっていた。そのころ、外資系メーカーもオフコンに参入し始めていたが、あるメーカーで聞いた話だ。「参入に当たっては、マーケット調査を当然行う。マーケットサイズはこれくらいだから、このくらいの投資をすれば、何%のシェアが取れるはずだと考えて投資額を決める。ところが、実際には投資に見合うシェアが取れない。分母の数字がおかしいと考えざるを得ない」というのだ。

 そのころ、IDG Japanの荻野雄二社長から「オフコンのシェア調査やるから手伝ってよ」といわれて、手助けする機会があった。

 「最初はとまどった。メーカーが発表する数字を足していくと、とんでもない規模になる。電子協の数字自体、自主申告だから、相当水増しされていることも分かってきた。荻野社長からは、アメリカでのやり方の手ほどきを受けつつ学んでいったが、よくアドバイスされたのは『本当のアルゴリズムは自分で確立しないとだめだよ』ということだった。メーカー各社の営業部長クラスとは懇意にさせていただいていたので、NECを訪問した時は、富士通さんはこんな数字出してきたけど、信じていいですか?といった質問をする。富士通に行った時は逆にNECの数字を聞く。こうやってクロス集計していくと、ほぼ業界の実態が見えるようになってきた。こうして本当の数字の重みを知った。だから、紙面づくりではデータ、データとしつこくこだわった」

 コンピュータ・ニュースを創刊して1年が経とうとする頃、IDGの創業者であるパトリック J.マグガバン氏が来日したおり、荻野氏に頼んで会わせてもらったことがある。IDGはなぜ成功したのかと尋ねたら、「ランキング、ラーンキングと歌うように」答えた。この一言で、奥田は新しい方向性を見いだすのである。

 荻野氏とは、その後意見が対立することがあったが、「本当の数字の重さを教えてくれたのは荻野さんなのだから、大の恩人だね」と述懐する。

 ともあれ、久田仁氏、小林一作氏などに学んだことは、起業に当たって大きな財産となった。写真は1981年8月18日付の「会社設立に当っての覚え書」で、最初に「人ありて我あり」をもってきている。「人から学ぼうとする姿勢」は創業時からのものだったことが分かる。
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