人ありて我あり~IT産業とBCNの昨日、今日、明日~
<人ありて我あり~IT産業とBCNの昨日、今日、明日~>連載3 情報検索理論を確立、実践した
2006/10/30 16:04
週刊BCN 2006年10月30日vol.1160掲載
小林一作氏との出会い
■コンピュータのコの字も知らなかった「すごい人だった。かたくなに筋を通して、一生を終えられた」
奥田の見た小林一作氏の像だ。なぜ、小林氏に傾倒するようになったのか、簡単にたどっておこう。
奥田が社会に出たのは1970年だが、入社試験のシーンは忘れられないという。用語解説をせよ、という10の設問の中に「コンピュータ」という単語があった。その設問だけ答えられなかったのだ。
最初の仕事は経営雑誌の編集者だったが、経営雑誌もこの頃は積極的にコンピュータを取り上げるようになっていた。コンピュータのコの字も知らなかった奥田に割り当てられたのが、皮肉にもコンピュータユーザーの取材だった。編集者だから、自分で書くわけではないが、最先端ユーザーを探し、アポイントメントを取り付けるという下ごしらえをして、取材にも記者と同席する。日本郵船、小野田セメント、花王石鹸(現花王)、ブリヂストン等々を回った。当時、最先端のコンピュータユーザーであり、それを主導していたのは気鋭の論客たちだった。後に大学教授になる人も何人かいた。
「最初に驚いたのは、見せてもらったコンピュータの大きさだった。空調をきかせた部屋の中に、中央演算処理装置なるものと、磁気テープ装置が何台も並んでいる」。そして、「超エリートたちが、うちのはIBM製で、こんな使い方をしている。これがなければうちの仕事は成り立たない」と、コンピュータの効用を熱っぽく説く。「多少鼻持ちならないなと思う人もいたけど、コンピュータが並々ならぬものであり、世界を変える道具だということは理解した」と奥田。
■情報処理理論を実践に応用
そして、実際に取材して記事を書く段になって、自分の知識不足に改めて愕然とした。耳学問という言葉があるが、取材中、知らない用語が出てくると、率直に質問した。その質問に、驚くほど明快な説明をしてくれたのが、前回触れた内田洋行の久田仁氏であった。
本も読んだ。その中の一冊が小林氏の書いた「情報選択の技術」で、これに感銘、引き続いて「コンピュータ小辞典」も読んでみて大いに啓発された。どうしても会ってみたくなり、当時懇意にしていたコンピュータメーカーに勤める人に仲介の労を願い、昼を回った頃、世田谷区・豪徳寺の自宅を訪ねた。「おう、上がれ」と一作氏。奥さんも気さくに「どうぞ、どうぞ」と勧めてくれる。言われるままに上がり込み、「コンピュータの勉強中です。情報処理とはなんぞや、の基礎から教えていただきたい」と乞うと、得たりや応と一作氏の演説が始まった。「一作さんもしゃべり始めると止まらない方だから、口をはさむのに苦労しながら、『哲学ばかりですね』などと時々質問すると、ムキになって反論してくる」。あっという間に夜になった。「飲めるのか」と聞くので「いける口です」と答えると、ウィスキーボトルを3本取り出してきた。テーブルの上には、奥さんの手料理が並び出す。結局、その夜は徹夜で講義を受けることになった。
小林氏は、自分の情報処理理論を実践に応用した人だった。「ビスインデックス」という独特の情報検索理論を確立、日刊紙5紙、雑誌80誌を対象に、独自の索引付けを行い、「欲しい情報にできるだけ早くたどり着ける」サービスを提供していた。
「やはり、一種の天才だったと思う。グーグルに先んじること何十年かな、あの発想を持っていた」と奥田は振り返る。
小林氏は、80年代の一時期には赤坂の一等地にオフィスを構えるほどの発展を見せたが、収益の全ては「自分の理論の実践」に注ぎ込んでいたようで、やがて、赤坂のオフィス、豪徳寺の自宅も売却した。豪徳寺を引き払うというので、驚いた奥田が飛んでいくと、「世を捨てることにしたけど、やりたいことをやってきた。悔いはないよ」というのが小林氏の言葉だった。
奥田は時々奥さんと連絡を取っていたが「自分の世界にこもっています」というのがいつもの返答だった。2003年8月、訃報を聞いた。「かたくなに自分の信念を信じて生きた人だった。私も見習いたい」と懐かしむ。
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