人ありて我あり~IT産業とBCNの昨日、今日、明日~
<人ありて我あり~IT産業とBCNの昨日、今日、明日~>連載2 求められる情報の本質とは
2006/10/23 16:04
週刊BCN 2006年10月23日vol.1159掲載
「起業の師」と「分析・予測の師」
■収支計画はどうなっているの?--久田仁氏のアドバイス土浦の練兵場で独立を決意した奥田は、新聞記者の仕事の合間を縫いながら、事業計画などをまとめていった。
「少なくとも3年から5年分の事業構想は練っておこうと思った。考えたことは、メモして残すことにしているが、それを久田さんに見てもらったことがある」と奥田。
久田さんというのは、後に内田洋行の社長になる久田仁さんのことだ。奥田は取材を通じ、当時オフコン部門の長だった久田さんには何かと可愛がってもらっていた。その久田さんの第一声は「なかなか良くできているね。でも、一番肝心なことが抜けていないか?」というものだった。「えっ!?」と問いかけると、「収支計画書がないじゃないの」というのが答えだった。
それは重々承知していた。収支の見通しがつかないことが、決断を遅らせる一つの理由だったからである。この点は苦慮したうえ、「外部に原稿を書いて、その原稿料を運転資金にしよう」と腹をくくっての独立決意だった。
久田さんにはずいぶん多くのことを教えてもらったという。内田洋行は、文具・事務用品の卸業として発展してきたが、1960年代後半には電卓に進出、70年には自社製造でオフコンに参入するなど、事務機メーカーになることを鮮明にしていた企業である。ただ、メーカーになることはそれほど簡単ではない。電卓は「電卓価格戦争」に巻き込まれて敗退、自社開発のオフコンも苦戦を強いられ、75年には富士通の傘下に入ることを選択した。
奥田が久田氏を知ったのはこの頃だが、「コンピュータのコの字もおぼつかない初心者だったので、基本的なイロハを尋ねたものだが、実にわかりやすく説明してくれる。あっ、それなら分かるというと、『コンピュータにしたって半導体にしたって、人間の身体を想定して当てはめていけば全て説明がつくんだよ』と説明してもらったことを鮮明に覚えている」という。この連載の第1回目で、オフコンディーラーの全国回りをやったことを書いたが、じつは交通費、宿泊費などの経費を負担してくれたのは久田氏だったのだ。条件は「見返りとして、ディーラーの状況を話してくれればいい」というだけのものだった。「久田さんとのやりとりのなかで、業界の人が本当に欲しがる情報とはこういうものなんだ、ということが分かってきて、次の取材では必ずその辺りを聞くことにした」。奥田は、ニーズの高い情報とは何かを久田氏から学んだ。
■分析と予測の重要性を教えてくれた師--小林一作氏との出会い
奥田がもう一つ重視したのは、「分析と予測」だった。創刊号では、題字の上に「分析と予測。マーケティング・ブレーンのための専門紙」というキャッチコピーが入っているが、分析と予測を重視するようになったのは、もう一人の先達の影響が大きかった。
当時、奥田が師事し、先生と仰ぐ人間が何人かいたが、その一人が、小林一作氏(故人)である。「情報科学」というコンピュータの月刊雑誌を発行していた。コンピュータジャーナリストの草分けの一人である。この頃、コンピュータが分かるジャーナリストはほんの少数であり、それも明確に世代分けすることができた。第一世代が汎用コンピュータの台頭に刺激されてコンピュータ雑誌を創刊した小林氏や、「コンピューターレポート」という雑誌を発刊した藤見虎敏氏である。
第二世代は、巴クラブに所属した新聞記者たちだ。コンピュータ産業の振興を目的に、旧・通産省が電子協(日本電子工業振興協会、現JEITA)を設立したのは1958年だが、日刊工業、日本工業、電波など日刊産業紙の有志が集って設立した記者クラブがあり、電子協の所在地だった地名をとり、「巴クラブ」を名乗った。
雑誌系の第一世代は、コンピュータ技術そのものに関心を持ち、その方向からの誌面づくりを行っていた。対して、巴クラブの面々は、国産コンピュータ産業の振興、育成はどうあるべきかという行政面に関心を持つ度合いが強かった。
小林氏の知己を得てからは、東京・世田谷の豪徳寺にあった同氏の自宅に良く遊びに行った。「二人とも酒が好きだったから、飲みながら話すんだが、小林さんも話し出すと止まらない方で、徹夜になったことも何度かある」という。
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