人ありて我あり~IT産業とBCNの昨日、今日、明日~
<人ありて我あり~IT産業とBCNの昨日、今日、明日~>連載1 代理店の質と量が勝敗決める
2006/10/16 16:04
週刊BCN 2006年10月16日vol.1158掲載
オフコン取材で知った流通の重要さ
■パソコンに衝撃受ける「私の社会人生活は、コンピュータ雑誌の編集者としてスタートした。ただ、私自身は自分で取材し、原稿も書きたいと思っていた。そんな時、ある事務機系の業界専門紙に勤めていた先輩から声がかかり、その会社に移ることにした。この業界紙は、事務機、特に複写機などをメインターゲットにしていたことから、専門外のコンピュータは君に任せるということになった。その条件につられて入社することにしたが、自分の足で歩きだして、コンピュータ業界はものすごい可能性を秘めている世界だなと改めて肌で実感した」。奥田喜久男とIT産業との出会いはこうして始まった。
奥田は1974年に前記の会社に入社したが、当時は、大型の汎用コンピュータはIBMをはじめとする外資系が圧倒的に強く、国産メーカーは超小型コンピュータで活路を開こうとしていた。その超小型コンピュータの一種としてオフィスコンピュータ(オフコン)が登場、中小企業も活発に導入し始めていた。オフコンの出荷統計は77年から取られるようになるが、同年の出荷台数は9609台、出荷金額は668億円だった。この77年までが市場揺籃期といってよく、翌年から市場は急成長期に入っていく。取材の焦点をオフコンに絞り、それもディーラーの取材に力を入れた。
「汎用コンピュータはメーカー直販だったが、オフコンについては各社とも代理店販売に力を入れていた。
ただ、オフコンを売る力のある代理店の数はそう多くはない。各社、懸命に代理店の育成に力を入れ、特に地方では複写機のディーラーなどに働きかけ、オフコンを売れるように指導していた。一つの産業の勃興期のまさに渦中にいて、全国を飛び回った。その過程で見えてきたのはディーラー政策の巧拙だった。代理店販売を行う商品にあっては、最後の決め手になるのは技術ではなく、その代理店の質と量だということが見えてきた」
76年に大塚商会は、サポート体制づくりの意見対立により、内田洋行からNECに乗り換える事件が発生する。この3社のいずれにも懇意な取材源を持つ奥田は、深い関心をもって追い続け、代理店政策の重要さをここでも知ることになる。
■全国のディーラーをまわる
こうしてオフコンを追い続けるなかで、ある日、新たな衝撃を受けた。80年のことだ。日立製作所とNECのパソコンの内覧会に相次いで立ち会うチャンスを得て、その可能性の大きさに気がついた。
「企業に一台のオフコンと異なり、パソコンなら一人一台の時代がいずれくるだろうなと直感した」と振り返る。それで、勤めていた会社の社長に「パソコンの専門紙を出しましょう」と訴えるが、まったく関心を示さない。「それなら自分でやるしかないか、と考え出したが、最後の踏ん切りがなかなかつかなかった」という。
81年6月、土浦にあった練兵場の兵舎を見に行った。遺品や遺書が飾ってある。それを何回も何回も見て回った。日本列島の形をした池があり、魚が泳いでいる。自分が歩くと、魚がついてくることにビックリしたりしながら、一日中、ぐるぐる回っていたが、なお決断できない。夕方、閉門が迫ってきた。さっき見た兵士たちの遺書をまた眺めていた時、「失敗したって殺されるわけじゃない」という思いが浮かび上がってきた。それが転機になり、「よし、やってやろう」と決断がついた。
2か月後の81年8月18日に株式会社コンピュータ・ニュース社(現BCN)を創業、同年10月15日に「BUSINESSコンピュータニュース」を創刊したのである。
- 1