脱レガシーの道標 IT新改革戦略を読む
<脱レガシーの道標 IT新改革戦略を読む>【第2部】連載第5回 地元IT産業振興の旗を降ろした長崎県
2006/10/02 20:37
週刊BCN 2006年10月02日vol.1156掲載
外部招聘CIOの孤軍奮闘
小分け受注ではメリットがない
長崎県の総務部参事監(情報政策担当)・島村秀世氏に初めて会ったのは、2004年の春。5年がかりでNEC製メインフレームを撤去し、OSSをベースにシステムを全面的に入れ替える「e県ながさき」推進の中心人物として、全国的にその名が知られ始めたころだった。e県ながさきは脱レガシーの成功事例とされるが、地元IT産業振興の旗を降ろさざるを得なかった。長崎県の脱レガシーは、地元ITサービス会社にどのように映ったのか。(佃均(ジャーナリスト)●取材/文)■OSS=コスト削減は間違いだ
2004年7月、東京・麹町の地方自治情報センター(LASDEC)で「地方公共団体におけるオープンソースソフトウェア(OSS)の利活用方策」調査研究委員会の第1回会合が開かれた。その委員として出席した島村秀世氏は、丸顔の人なつこい表情の中にも、鋭い眼光を放っていた。氏はすでに、地方公共団体の“脱レガシーの旗手”として脚光を浴びていた。
委員会は計5回開かれたが、全体を通じて島村氏は多く発言しなかった。だが、報告書の取りまとめを担当した三菱総合研究所が「OSS=ライセンス料無償=システム開発コストの削減」を既定路線として進めようとしたのに対して、氏が放った一言が全体の流れを変えた。
「OSSが無償で入手できるから、コストを削減できるというのは間違っている」
無償で入手できることによって抑制できるのは、システム開発のイニシャルコストに過ぎず、運用コストまで含めれば全体の数%にもならない。しかもOSSは採用したユーザーに自己責任が求められ、したがって一定水準以上のITスキルが必要となる。また脱レガシーの目標はオープン化またはOSS活用でなく、保守・運用コストの抑制でもない──等々の主張は、いずれも理に適ったものだった。結果として三菱総研は当初の路線を修正せざるを得なかった。
島村氏は1986年に早稲田大学を卒業して前田建設に入り、現場管理を経て構造解析システムの開発に従事したあと日本総合研究所に移籍、ビジネスモデルの研究とコンサルティングの手腕を買われて00年4月、長崎県にCIOとして招かれた。招かれたというのは表向きで、実際は長崎県の次期システムのコンサルティングに当たった日本総研が、県から「言いっぱなしでなく、ちゃんとシステムをつくってほしい」と迫られて島村氏を送り込んだ、というほうが正しい。
人選は適切だった。島村氏が経験のなかで培ったのは、「スキルが高くないIT技術者を使って、いかに効率よく大規模なシステムをつくるか」ということだったからだ。早稲田大学からまっすぐ日本総研に進んでいたら、氏は机上の空論を振り回す“頭でっかち”になっていたかもしれない。前田建設での現場管理の経験が下地を形づくっているのだ。
■地産地消の方程式は機能せず
「e県ながさき」計画での脱レガシーは、メインフレームで稼働している情報系システムを、向こう5年間でOSSベースのオープンシステムに移行するというものだった。並行して大量データのバッチ処理をサーバーベースに移し、最終的にメインフレームを撤廃する、というのである。
このとき島村氏がとった戦略は次の5項目に集約される。
(1)県の職員が仕様書に責任を持つ(2)使用するアーキテクチャを決めて発注する(3)特殊なハードウェア、ソフトウェアは採用しない(4)システムは小規模なものから始め、大規模なシステムは小分けにして発注する(5)以上を可能にするため職員のITスキルを高める。
要約すると、ユーザーは情報システム調達の当事者にならなければならない、という思想だ。
「業務として毎日かかわっているのだから、どのように改善したいかは職員がいちばん知っている」「情報システムのコストないし投資対効果の評価を行政側が面倒くさがるから、結果として高いものになる」「システム保守費を固定費から変動費に変える」といった言葉はすべてそこから生まれたといっていい。
総論的な話が多かったので、ここで具体的な例を紹介しよう。システム設計に際して島村氏はまず、原課の職員にラフなスケッチを描かせる。「こうであるといい」と思う機能、画面や帳票のイメージをA4の用紙に書いてもらう。「ペーパー・プロトタイピング」と呼ばれる手法だ。
これをもとにITの専門家が概要設計をつくる。さらに画面や帳票の設計を、それぞれのプロがチェックする。現業のプロ、概要設計のプロ、詳細設計のプロを組み合わせて設計を煮詰めていく。この方法だと、特定の大手ITベンダーに丸投げすることがなくなる。
実際、長崎県は大きなトラブルもなく今年春に脱レガシーを達成した。島村氏あっての脱レガシー、OSS活用だったことは間違いない。ただし島村氏にとって誤算だったのは、「システムの小分け発注+OSS活用=地元ITサービス振興」の方程式が機能しなかったことだ。
氏が構想したのは、標準化されたアーキテクチャまたは仕様が公開されたIT技術を採用し、システムを小分けにして発注すれば、地元ITサービス会社にもチャンスを与えることができる、というものだった。「これまでに開発した96のサブシステムのうち、約半数を地元ITサービス会社に発注した」と島村氏は胸を張る。
むろん、この数字に偽りはない。ITの地産地消は達成された──かに見える。しかし島村氏ないし長崎県が明らかにしていないのは、地元のどのような企業に発注されたか、という具体的な中身だ。
■失せる地元IT企業の期待感
たしかに、Webベースのスケジュール管理システムなど情報系は地元企業が請け負って、順調に開発が進められた。
ただし、ベースとなったのは松下グループが開発したコミュニケーション・システムであり、住商情報システムが手がけるリッチクライアント・ツールで、地元ITサービス会社はそれをカスタマイズする役割を担ったに過ぎない。「果たしてこれが地元振興に結びつくのか、という疑問が残った」という声もある。
問題だったのは基幹系システムをメインフレームからサーバーに移行する作業だった。メインフレームのメーカー、その系列で運用保守を請け負っていた地元企業が強く抵抗した。それもあって、「時間が経つにつれて、期待感が失せていった」という。
脱レガシープロジェクトの第1回入札に応じた地元企業は44社だったが、メーカーや地元有力企業からの圧力もあって、最後は4-5社に減っていた。
「なぜかと言うと、小分けにされたシステムを受注しても、全体が見えないからだ。大規模システム開発のパートを担当するのと同じで、何をつくっているのかが技術者に伝わらない。さらに予算が厳しいため、あえて受注するメリットがない」
OSSの技術を習得できるメリットがある、チャレンジしてほしい、と島村氏は説得したが、「長崎県のシステム開発で得たOSSのノウハウや技術を転用する局面が、県内のIT需要にはない」という反応だった。しかも、プロジェクトをどう進めるかはすべて島村氏の頭の中にあって、地元IT企業は一体感を持つことができなかった。
結果として05年に入って長崎県はついに「地元IT産業の振興」を政策目標から降ろしてしまった。
04年に行ったインタビューで、「何が課題か」という質問に島村氏は次のように語っている。
「悩みというより、孤独だ」
またこうも言う。
「長崎県は島村モデルでうまくいった。でも自分がCIOから去ったら、どうなってしまうのか。自分に代わる人材が育ったかを自問せざるを得ない」
長崎県で注目されるのは脱レガシーでもOSS活用でもなかった。“ポスト島村”なのである。
- 1