大航海時代
<大航海時代>第22篇●新しき勇者たちへ 第111話 源泉は京に在り
2003/12/15 16:18
週刊BCN 2003年12月15日vol.1019掲載
水野博之 広島県産業科学研究所長
いま、京都にいる。暮の京都というのは何とも言えぬ風情があって毎日毎日ワアワア走りまわっている日常を大いに反省させるものがある。昨日も、粟田神社から青蓮院、知恩院、円山公園、祇園への道をゆっくり歩きながら、何とは言えない心の安らぎを感じた。ここには、数百年来、頑として変わらなかった確たるものがあって、それが何かとはわからないままに安心してしまうのであろう。歴史というものはそんなものかもしれない。その時代時代に流行したもののうち消えるべきものは消えて、時間のなかで研ぎすまされたものだけが残った、いわば(本物)という確かな風格がここにはある。さらに言えば、日本のもろもろの発祥がこの地を基としている。といってもよいかもしれない。衣食住から物造りまで、日本の源泉は京に在り、といってよいかもしれぬ。
論より証拠、今でも「京料理」といえば、東京はおろか日本の津々浦々まで高級料理の代名詞となっている。かつては衣類から食器からすべて「京物」は極上の品とされたのである。物造りだってそうだ。いまだに「名人」の住居する数において京都は他の都市を圧倒している。それら技術はいまも脈々として日本の物造りのなかで生きている。
それはちょうど、欧州における時計技術のようなものであろう。このおっさん達は自らの技術に対してうるさい、と同時に他人についても極めて厳しい批評眼をもっている。例えば京都の能の会に出てみるとよい。横丁からヒョコヒョコ出てきたようなおっさんが、名人の芸を評して、「今日はどないしなはったんやろ。大変できが悪うおましたな」などと平然として言う。そしてそれが見事なほど当たっているのである。軽薄浮調もまたやむを得ないこととはいえ、時として伝統に還ってみることもまた必要であろう。(祇園にて)
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