視点

著作権はなぜ切れるのか

2003/11/10 16:41

週刊BCN 2003年11月10日vol.1014掲載

 電子書店パピレスが、auの携帯電話向けに書籍ファイルのダウンロード・サービスを始めた。現代の作家の有料作品に加えて、青空文庫やプロジェクト杉田玄白で電子化・翻訳された著作権切れのものが無料で引き落とせる。紙にあてはめれば、有料と無料の本が半分ずつ棚を分け合う書店ができたことになる。奇妙だろうか。いや私には、この形こそ著作権法の本来の期待にそっているようにみえる。

 著作権法の柱である著作者等の権利保護は、法の目的ではない。あくまでも手段だ。同法の第一条に掲げられた、真の目的は「文化の発展」に寄与すること。その手段の1つが、権利保護であり、文化的な所産の「公正な利用」を図ることが、もう1つの柱として示されている。相続した財産の所有権が、親の死後50年で失われると想像してみてほしい。「ばかな」と、不満の声があがるだろう。そんな「理不尽」な規定が著作権法には盛り込まれている。権利は著作者の死後50年で切れる。それはなぜなのか。

 われわれはパブリック・ドメインの言語を習得し、膨大に積み上げられてきた知識や芸術に育てられ、自らの考えを組み立てるにあたっては、対価を求められることなく、先人の考えを利用する。ある時点で、ある作品を生みだすのは、確かに個人だ。だがこの個は特定の誰のものでもない。けれどわれわれ全てが恵みに浴することを許される、文化の大河の中に生まれ落ちてこそ、何ものかを生み出しうる。全ての創作物には、この二面性がある。だからこそ、ある期間、著作者の権利を守ることと、あるところで権利を打ち切り、誰もが著作物を利用しやすくするという2つの対処が共に、文化の発展に寄与する手段足りうる。

 ただし、複製物を作ることのコストが十分に高ければ、著作権料がかからなくなったことによる費用削減効果などたかが知れている。死後50年で権利を切り、誰もが自由に複製物をつくれるようにして、公正な利用を後押しするという期待は、これまでは空念仏に終わってきた。だが、複製と配布のコストを圧倒的に引き下げるデジタル技術は、期待を現実に変えた。著作権法の願いは、今、初めてかないつつある。
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