大航海時代
<大航海時代>第22篇●新しき勇者たちへ 第76話 「だけ」に熱中する
2003/03/31 16:18
週刊BCN 2003年03月31日vol.984掲載
水野博之 大阪電機通信大学 副学長
天は二物を与えず、という言葉がある。簡単にいえば、人間そうそう何もかもはできませんよ、ということだ。ワットも大エンジニアではあったが、大教授ではなく、商売人でもなかった。彼はただ、自分の好きな機械いじりに熱中しただけである。ここに、「だけ」と書いたが、この「だけ」が大切なのであって、これを見つけるのが人生である、といってよい。何だってよいのだ。「~だけ」に熱中している人の姿は美しいし、幸福に見える。まわりはいざ知らず、本人は大満足である。結果として、それが名誉や富をもたらせばそれでいよいよ良いし、そうでなくっても、本人が楽しければそれでよいではないか。理屈はそうであるが、どうもねぇ、という気分がわれわれ日本人の心のどこかにある。かくいう私にもある。これはどういうことか、とつらつら考えてみるに、このことこそ、明治立国以来100余年、われわれ日本のなかに巣喰った最大の宿題であるように思われる。そこには、国や組織によってつくられた牢固たる1つのパターンがあって、それから外れることは異端とされてきた。
この画一的な思考教育が日本の過去の成功をつくったことはまぎれもない事実であるが、この均一性こそがいまの日本の苦境を来たらしめている原因なのである。そこでは異端を極度に嫌う。それは保守派にとどまらないだろう。革新を標榜する人々もまた同じである。自らの革新からの異端を許さない。エンジニアというのは異端の群れなのだ。異端であるからこそ、既成のものを変え、人類を変えてきたのである。こう考えてくると、現在の日本の沈滞を打破できるのはエンジニアである、といってよいであろう。カール・マルクスの言葉にならえば、「全日本のエンジニアよ、決起せよ」ということになろうか。(大阪寝屋川河畔から生駒山を眺めつつ)
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