大航海時代
<大航海時代>第22篇●新しき勇者たちへ 第18話 鉄斎の絵
2002/01/28 16:18
週刊BCN 2002年01月28日vol.926掲載
高知工科大学教授副学長 水野博之
鉄斉が育ったのは幕末動乱の時期である。お師匠さんは太田垣蓮月(1791-1875)と言われるから、詩歌、国学、漢学といろいろなものを学んだのであろう。ついでに申しておくと、太田垣連月は京都生まれの女性。夫に死に別れて尼となり、東山の一角に居を構えて歌をつくり、陶器を焼いた、という異色の芸術家である。鉄斉もまた蓮月からいろいろなことを学んだに違いない。彼はよく、「私は絵描きではない。私の絵は私の表現に過ぎない」などと言った、と伝えられる。その点もまた蓮月によく似ている。鉄斉の場合は陶器ではなく表現の手段が絵であった、というわけだ。
最初、鉄斉は大和絵(日本の風物を描いた絵)からスタートし、南画(南宋の時代の中国画の手法)へと移っていき、ついには独特の境地に至るのである。
鉄斉というのは、大変いろいろなことに興味をもった、よく言えば好奇心の強い、悪く言えば野次馬的性格の持ち主であった。この野次馬根性が、彼をいつまでも若々しく大きくしていったに違いない。そうして、「儂(わし)の絵は年を取るほどよくなった」などと人を喰ったことを言うようになったのであろう。
鉄斉の絵のなかにはいろいろな人物が現れる。鉄斉によれば、それぞれの絵にはそれぞれの意味があり、それが鉄斉の全学識を物語っているのだそうだ。山道に座って暢気な顔をして酒を飲んでいるオッサンにも人生の意味を込めている、なんていわれると容易に近づけないような気もするが、鉄斉の絵は絵としても楽しいもので、見るだけで価値はあるものだ。
シュンペーター流に言えば、「鉄斉の絵は、かれのすべてが総合凝集したものであって、其処においてかつてない新しい境地、すなわち創造的破壊を起こしたのだ」といえるのであろう。(宝塚・清荒神にて)
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