リクルートコミュニケーションズが昨年9月、D-Wave Systems主催のユーザー向けイベント「Qubits North America 2018」で、量子アニーリングマシンの検証事例を発表した。リクルートグループが運営する旅行サイト「じゃらん net」で表示される宿泊施設の最適化に向けての取り組みである。量子アニーリングマシンを活用することで、売り上げが約1%向上したという。実ビジネスでの効果を示した世界初の事例である。D-Wave Systemsが商用量子アニーリングマシンを発表したのは2011年。量子アニーリングマシンを活用する「Qビジネス」が、ようやく動き出そうとしている。(取材・文/畔上文昭)
「まだ早い」と思っていると
すぐに「もう遅い」になる
「まだ早いと考えている」。IT業界関係者の多くは、量子コンピューターに興味を抱きつつも、事業としての取り組みに慎重な姿勢をみせがちである。主な理由は次の二つ。
一つは、量子コンピューターが発展途上にあり、まだ実用に耐えないというもの。もう一つは、事例がないということ。量子コンピューターには、汎用的な活用を目指す量子ゲート方式と、組み合わせ最適化問題などの特定用途向けの量子アニーリング方式(イジング方式)がある。量子ゲート方式は、確かに発展途上にあり、活用方法も学術的な研究段階にあり、実ビジネスへの適用にはまだ時間がかかるとみられている。一方の量子アニーリング方式も、発展途上であることは確か。しかし、量子アニーリングが得意とする組み合わせ最適化問題は、多くのビジネスに適用できることから、NTTデータをはじめ、まずはアニーリングに取り組むというSIerが出始めている。ちなみに、量子ゲートマシンが実用的なスペックへと進化すると、組み合わせ最適化問題の計算も理論的には可能となる。そのため、量子アニーリングマシンは、量子ゲートマシンが進化するまでの特定分野向け専用機とも考えられている。
SIerが知っておくべきなのは、これまでの古典コンピューターと量子コンピューターでは、活用に際して必要とされるノウハウが大きく異なるということ。キャッチアップには時間がかかる。ビジネス課題を量子コンピューターで解決できるかどうかの勘どころも、経験を積まなければ得ることができない。マシンの成熟を待つよりも、早期に取り組みを開始することが求められる。
慎重なSIerを横目に最新テクノロジーに敏感なユーザー企業は、すでに動き始めている。その一社がリクルートコミュニケーションズだ。
宿泊施設の表示順に
多様化の要素を追加
リクルートコミュニケーションズは、リクルートグループでの活用を想定し、さまざまな最新テクノロジーを研究している。量子コンピューターに注目したのは、デジタルマーケティングへの応用に可能性を見出したため。同社はD-Wave Systemsの量子アニーリングマシンでの研究を進め、18年9月、旅行サイト「じゃらん net」での検証事例を発表した。
じゃらん netでは、行き先や日程など、利用者が指定した条件をベースに、人気の高い宿泊施設から順に表示される。この表示順を決めるところで、量子アニーリングマシンを活用した。
「これまでのリコメンデーション機能は、多様性の面で弱いところがある。似た属性の宿泊施設が並びがちになる。そのため、多様性を加えることによる効果を確認したかった」と、リクルートライフスタイルでの研究プロジェクトを索引する西村直樹氏は、じゃらん netの課題と量子コンピューターの活用について説明する。
予約サイトやECサイトなどは、最初に表示される画面、それも上位に表示される情報によって、売り上げが大きく左右される。上位に表示されるほど、クリック率が高い。そのため、利用者が指定した条件に対し、該当する商品(情報)などを人気順に表示するのが一般的。ただし、それでは似た商品が並んでしまいがちとなる。そこで、適度に多様性を持たせれば、利用者のニーズに応えられる可能性があるというわけだ。
そこでリクルートコミュニケーションズは、じゃらん netの宿泊施設の表示順に量子アニーリングマシンを活用。一覧表示の多様性では、「宿種別の多様性」「宿エリアの多様性」を考慮した(図1、図2)。この多様性が加わったことにより、売り上げが約1%向上するという結果を残したのである。
「この1%をどう評価するかは議論の余地があるが、実ビジネスでの効果を発表したのは世界初。多様性において、単純なランダム表示ではなく、計算した結果を用いた表示が成り立つことが分かった」と、リクルートコミュニケーションズでグループの各領域のビジネスとの接続を進める金田將吾氏は量子アニーリングマシンへの取り組み成果を説明する。
また、金田氏は、「人気順と多様性のバランスという、二つのトレードオフの最適化について確認できた。ほかにも応用できるという可能性を感じている」と、量子アニーリングマシンを活用することの有用性を評価している。
QUBOを自動生成する
「PyQUBO」を自社開発
リクルートコミュニケーションズには、アニーリングマシンの特筆すべき実績として、実ビジネスでの検証事例のほかに、ドメイン固有言語「PyQUBO」の開発がある。同社のリードエンジニアである棚橋耕太郎氏が開発した。オープンソースとして公開しており、誰でも利用できる。D-Wave Systemsのソフトウェアライブラリーの一つとして、同社サイト上においても掲載されている。
では、PyQUBOとは何か。その概要を解説しよう。
アニーリングマシンの活用では、組み合わせ最適化などの問題を解くに当たり、まずコスト関数(ハミルトニアン)と呼ばれる数式をつくる必要がある。次に、その数式の解をアニーリングマシンで計算するには、QUBO(Quadratic Unconstrained Binary Optimization:二次制約なし二値最適化)の形式に変換する必要がある。これは、デジタル回路を用いた富士通や日立製作所のアニーリングマシンでも同様だ。PyQUBOは、そのQUBOへの変換を不要にする。
「数式に定式化した後にQUBOへと変換するが、そこでミスを起こしやすい。また、アニーリングでは結果を基に数式を見直すという作業を繰り返すが、QUBOへの変換に意外と時間がかかる。PyQUBOを使えば、トライ&エラーをまわすスピードが劇的に速くなるため、重要な部分に時間を割くことができる」と、西村氏はPyQUBOのメリットを説明する。じゃらん netでの取り組みでも、PyQUBOは大いに活躍した。ちなみに、PyQUBOを用いずにQUBOを直接書くこともできるが、読みにくいソースになりがちだという。PyQUBOでは数式をそのままの形で記述するため、この問題の解消にもつながる(図3)。
じゃらん netで効果実証も
利用を継続していない理由
じゃらん netで効果を示したリクルートコミュニケーションズだが、実は常時稼働するという意味での本番運用には至っていない。その理由について、金田氏は次のように語る。
「ビジネスで活用できるという可能性を示せたが、現状では本番運用ということにはならない。まず、量子アニーリングマシンが24時間365日、信頼性を持って稼働するという環境にない。本番運用となると、障害発生時の運用を担う環境も必要だが、それも構築できない。また、当社の体制として、トラブル時の対応ができる人材が限られるという課題もある」
ウェブサービスでは常時、多くのアクセスを安定して処理することが求められるため、トラブルを想定した対応が可能な環境や体制が整うまでは、本番運用には至らないというわけだ。とはいえ、量子アニーリングマシンの有効性は確認できた。リアルタイム性が必要な処理ではなく、バッチ処理のようなケースであれば、本番環境への適用も考えられる。
「ビジネスへの適用を考慮し、何が得意なのかを見極めていく。ビジネスでは、量子アニーリングマシンで求められる近似解で十分なケースがある。一方で、古典コンピューターでも解ける問題や量子アニーリングマシンが苦手とする問題もある。そうした中で、従来になく、よりイノベイティブな手法に取り組んでいきたい。そして、実ビジネスへの適用を期待している」と金田氏。リクルートコミュニケーションズでは今後、新たな可能性を求めて研究を続けていく予定である。