旅の蜃気楼

ひと足先に青空へ旅立った富田倫生さん

2013/09/20 15:38

【内神田発】人間、60を越えると、悲しい出来事にでくわすことが多くなる。この夏、尊敬する人の訃報に接することになった。

辞世の句「人は実際、見かけによらないものである」 富田倫生 享年61。

▼9月25日、ご縁のある人が集まって東京会館で『富田倫生追悼イベント』が開かれる。私はこの日、“ご縁のある薄情者”になって、チベットのラサを訪れるために成田空港からのANA便で彼の大好きな「空」に飛び立っている。ラサ行きは中国訪問36か所の集大成として5か月前から計画していたので、「倫生さん、ゴメン」。追悼イベントの時刻には東京にいないけれど、あなたも空にいるよね。私も空を飛んでいるので、距離は近いはずですね。どこかで顔を見せてくれませんか。でも、私よりずっと上のほうにいるかもしれませんね。

▼時折、自分の友人を自慢したくなる時がある。「僕は彼を知っているよ」と自慢したい時もある。いや「僕は彼と親しいよ」と鼻を高くすることもある。こうなると、まるで恋人のようだけれど、青空文庫の創始者、富田倫生さんはそんな人だ。私だけでなく、多くの人がそう思っているのではなかろうか。彼は、8月16日の12時8分、61歳で亡くなった。若い。まだこれからなのにと誰もが残念がっているに違いない。でも病との闘いが彼の半生だったから、時間の許す限り、幕引きを十二分に自己演出して逝った。彼の書く原稿には隙がない、緊張感が底辺に漂っている。病気にならなければ、今、こうして私が追悼記事を書くこともないほどの物書きのビックネームになって、私は彼と出会うこともなかっただろうと思う。

▼彼の着想、情報集力、思考力、表現力は、鞘から抜けば鋭く光る刃(やいば)のようだ。切っ先に和紙を落とすと、紙は二つに分かれる。それほど、筆力が鋭い。生き方も彼の書く原稿のティストと同じだ。そこが彼を慕ってやまない人たちの倫生そのものなのだ。私は、肝臓を患ってからの彼と出会っている。著書『パソコン創世記』を書き終えた後の頃だ。その書籍に、私が監修した『ザ・PCの系譜』コンピュータ・ニュース社(現BCN)刊を紹介してくれた。「自分よりも先にパソコンの歴史をまとめた人物がいる」と驚き、私のことを知った倫生さんは、友人を介して会いに来てくれた。

▼初対面なのに、まるで二十年来の旧友のように語り合った。「地球や国、企業や学校、人に歴史があるように、産業にも歴史がある。出来事は時の流れにしたがって経過するものの、歴史は人が刻んでやらねば出来ない。コンピューター産業を担当する記者として、戦後に始まるコンピューターの産業史をいつかはまとめてみたいと考えていた。まずは身近なものを一書として刊行してみる」(『ザ・PCの系譜』奥田喜久男監修)。この本に記した視点がお互いを引きつけた。

▼ある時、倫生さんは肝臓移植をするために南米へ向かった。手術は無事に成功して、帰国してからBCNのオフィスに立ち寄ってくれた。この時は、深く生きることについて語った。こんなこともあった。ドイツにあるグーテンベルク博物館を訪れて『グーテンベルク42行聖書』を見た。「奥田さん、間違いない。手書き文字から活版印刷の本に移行した時の飛躍は、活版からデジタル文字の書籍への飛躍と同じです」。宝物を見つけた少年の顔だった。そして次の言葉が「僕はご存じのように髪結いの亭主でしょ。うちの奥さんのマイレージを使って行ってきました」。これには笑った。

▼パソコンを開いて青空文庫の『青空のリスタート』を読んだ。この文章の最後は、「人は実際、見かけによらないものである」で締めくくられている。私はこのくだりを彼の辞世の句と捉えて冒頭に紹介した。というのも、そのデジタル本の最後にこう記してあるからだ。「入力:富田倫生、校正:富田倫生、1997年8月26日公開、2013年8月17日修正」。8月16日に亡くなった倫生さんは、空の上からこの文章を修正したのだろう。

後書き:倫生さんは岐阜で息を引き取ったという。その地は私の故郷。またいつか会って、心ゆくまで語り合いたい。
(BCN会長・奥田喜久男)
2013年9月19日記


南米で肝臓移植の手術を終えて、元気な姿を見せてくれた富田倫生さん。
このときは「青空文庫」誕生の経緯について話してくれた(取材:2007年1月17日)

(追記)富田倫生さんの追悼イベントには、多くの著名人が集まって冥福を祈った
(『新文化』2013年10月3日号から転載)
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