旅の蜃気楼
横浜にあった豪華ホテルの物語
2013/09/13 15:38
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▽幕末の横浜。港が世界に開かれると外国船が横浜に殺到した。船が動けば人も動く。外国人相手の施設が必要となって多くのホテルが開業した。その中でもとび切りの豪華ホテルが、新橋~横浜に蒸気機関車が動き始めた翌年の明治6年に開業した「グランドホテル」だった。ホテルはその後、増築を重ねて最盛期には部屋数360を誇ったと言う。が、隆盛を誇ったホテルの終焉は突然訪れた。1923年の関東大震災で13あったと言う横浜の外国人用のホテルが全て一瞬の内に倒壊し炎上した。
▽震災の復興過程で横浜市の提唱でホテルの再建話が持ち上がった。そして4年後の1927年、38歳で、第一生命ビルや銀座の和光の設計者でもある気鋭の建築家、渡部 仁氏の設計に依るホテルが完成した。震災復興の象徴として建てられたホテルの旧館の敷地は今でも横浜市の所有であり設立の経緯からもホテルは横浜市民の公器だと言っても過言ではない。ホテルは公募に依って「ホテルニューグランド」と名付けられた。
▽失われた「グランドホテル」とは場所も資本も無関係であったが、営業政策上、外国人に有名であった「グランドホテル」の後継ホテルという思惑もあったに違いない。「グランドホテル」の時代、ホテルの前は海岸通りと呼ばれ、道を隔てた先は岸壁であった。新しいホテルが出来た時、岸壁の先には震災の瓦礫で埋め立てられた山下公園が広がり、新しい景観を生み出していた。船が港に着くとホテルの印半纏を着た車夫が人力車で迎え出たと言う。
▽その後、ホテルは国内外の著名人の宿泊等で隆盛を極め、軽井沢や山中湖にも宿泊施設を作った。開業時にパリから招かれたスイス人料理長、サリー・ワイルは日本の西洋料理の源流であったと言われる。ワイルの後には日本の一流ホテルの料理長がきら星のごとく連なっていた。ワイルはただ単に「美味しい料理」を作る、と言う事に留まらず、料理をサービスするスタイルにも革新をもたらした。
▽それまで、フランス料理と言えば「コース料理」が基本であったが、料理を単品で選べる「アラカルト」を日本で初めて導入したのがワイルだった。ローストビーフをシェフが切り分けたり、厨房の外に出てテーブルでお客さんと話をする、と言うのもワイルが始めたスタイルだった。又、人を育てる、と言う事でも革新的であった。それまで徒弟制度的であった厨房で料理の全般を系統的に学べるよう工夫した事もあった。それまで主流だった堅苦しいテーブルマナーに拘らず、より自然に食事を楽しむ雰囲気に変えた。
▽ヨーロッパ料理界の貴公子とも言われたワイルは何故、世界の中心とも言えるパリから極東の島国の一地方都市、横浜に来たのか? ワイルが敢えて横浜に来たのは、彼が行った数々の「革新」を実現したかったからではないか、と私は想像する。弱冠30歳、気鋭の料理人は脚光を浴びながらも保守的なパリの厨房で限界を感じていたのかも知れない。
▽「ホテルニューグランド」旧館3階の318号室は横浜出身の作家、大仏次郎が昭和6年から10年もの長きに渡り「書斎」として使っていた事でも知られる。部屋は港に面し窓からは公園越しに港が一望出来た。その右隣の315号室は、角部屋で公園に面した小ぶりの居室と、同じ位の広さの寝室、バスルームが続くスイートルームだ。ここから不思議な逸話が始まる。
▽昭和20年8月30日、厚木に降り立ったマッカーサー元帥はホテルに直行した。その3ヶ月前、500機余のB29で行った横浜大空襲にもホテルは無事であった事を事前に調べていたのだろう。ホテル到着後、マッカーサーは食事をした。最初に出されたのはスケトウダラのムニエル、きゅうりの酢漬け、鯨肉のステーキであったと言う。彼はステーキを一口食べると無言になり、後は手をつけなかったと言う。あまりにも貧弱な食材と映ったようだ。
▽その日から7年、ホテルは接収され米軍の拠点となった。ホテルの玄関には憲兵が立ち、外部との通信に日本語は一切許されなかったと当時の支配人・野村洋三氏の孫、野村弘光氏から聞いた。元帥が到着して3日後、東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリの艦上で「降伏文書調印式」が行われた。その艦上にはなぜか嘉永6年、日本に開国を迫った黒船・ペリー艦隊の旗艦に翻っていた星条旗が掲揚されていたと言う。 (山岳ガイド・堀源太郎)
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▼先日、『風立ちぬ』『終戦のエンペラー』『少年H』を見た。勝手に決めた2013年の終戦三部作だ。どの映画にも共通するのが空襲、玉音放送、マッカーサー元帥だ。これまでにもこのシーンは、いろいろな角度で繰り返し描かれているが、この原稿を読んで、新鮮な感動を味わった。コーンパイプを加えてタラップを降りた元帥は、ホテルに直行して粗末な食事をしたのだ。主脈ではない歴史の事実に、その日の出来事が、私のなかで3Dプリンタでかたちづくった創作物となった。元帥も同じ人間だったということがよくわかった。
(BCN 会長・奥田喜久男)
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