旅の蜃気楼

愛すべき“事件記者”との別離

2010/10/28 15:38

週刊BCN 2010年10月25日vol.1355掲載

【内神田発】何とも寂しいことだ。奥田明久さんが亡くなった。とてもユニークな事件記者だった。10月13日の午前中、日経パソコン元編集長の太田民夫さんから電話が入った。「奥田さん、朝日の奥ちゃんがさぁ、自死しちゃったんだね。知ってる? 週刊文春に出てるよ」。驚いて早速入手した。134頁に見慣れた奥ちゃんの写真が掲載されている。どんな顛末があったのかは知る由もない。ただ、とても愛すべき人物で変わり種の編集仲間が旅立ったことは厳然たる事実なのだ。

▼彼と最初に出会ったのは2002年4月15日だった。その数日前に電話をもらった。『ASAHIパソコン』の編集長に就任したので、業界の話を聞かせて欲しい、という依頼である。他誌の編集長が就任挨拶にくるなど、初めてのことだ。部屋に入ってきた奥ちゃんの姿は想像をはるかに超えていた。派手な指輪を数個はめて、腕には鎖をじゃらつかせ、髪はポニーテールで、ヒゲ面。まるでヘビメタのロック歌手だ。

▼「この業界、どうなんですか。門外漢のド素人が編集長に就いちゃったもんだから、イロハを聞きに歩いてるんです」。当時の業界誌関係者の一人が私であり、日経の太田さんなのだ。以来、回を重ねて会った。会うと、事件記者当時の話が出る。リクルート事件の話だ。記事は、1988年6月18日の朝日新聞に掲載された。「助役が関連株取得」という見出しで始まる。スクープするまでの顛末を語る姿にほれぼれした。これほど新聞記者と朝日新聞と自分を愛する人は少ないと思った。仕事師というのは、きっと美意識の塊なんだろう。

▼「後は勝手にしてくれ~。あばよ」。こんな奥ちゃんは一見、無責任にみえるが、駆け抜ける人生も認めないわけにはいかない。(BCN社長・奥田喜久男)

2002年5月27日号の週刊BCN「Key Person」に登場してもらった時の写真。記事には「事件記者からITへ 書くべきことは書く」という見出しがついている
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