旅の蜃気楼
山に集う
2002/09/09 15:38
週刊BCN 2002年09月09日vol.956掲載
▼街にいると山が恋しい。山にいると街が恋しい。人間は我がままにできているんですね。月山の頂上では不思議な縁が脈々と続いている。毎年8月13日のお昼頃になると、月山頂上小屋には仙台と、天童と、東京から3つのグループが三々五々集まる。なんとなく、なんとなく、それも毎年、なんとなく集まる。顔を見合わせて、1年の無事をお互いに定めながら、毎年、同じような話をして、大いに笑い、大いに語る。食べ物も豊富だ。おいしい、おいしい、それは美味いおにぎりを食べて、また大いに笑う。夜の7時になると、月山神社の柴灯祭に仲間入りして、燃え上がる炎のなかで、思い思いの空白の時を過ごす。「いびき」がうるさくて、眠れない山小屋の夜もあるが、おおむね熟睡して、朝もやのたなびく山並みに、昇る日の出を待ちながら、「あの山は舟形、あれは朝日だ。おお、今年は北アルプスも見えるぞ」。実に爽快なひと時だ。
▼毎年、1才ずつ年をとる。着実に年をとる。仙台の青木寛敏さんは確か、小学校の先生だったと聞く。もう50年近く、この日の月山に登っている。天童の村山浩一郎さん兄弟は5年前に他界した父親の遺志をついで、この日の月山に登る。弟の村山秀次郎さんはこの4月に、富士通オフィス機器を退社して、広島経済大学の助教授に就任した。教育者への思いは父親への思いだ。その後を継ぎたい、そんな思いが伝わってくる。思いがかなったのは50代だ。「思う」というは大切なことなんだ。この辺りから話は、複雑になる。不思議な縁が人の和を広げ、岩を穿つ雫のように、気の長い話が始まる。この父親のことを村山翁と、かってに呼ぶ。教育者とは生き方そのものが感動である。1965年8月13日、この日、猪股勝彦さんは鶴岡から月山に向けて山を登り始めた。背広姿に革靴の出で立ちは、東京の事務所で執務する姿のままだ。当時の肩書きは、東海電設工業・社長。水筒ももたない。無謀な登山は人の助けを借りることになる。猪股さんは村山翁と、この日に初めて出会った。人は多くの人と出会う。そのなかで太い縁の糸は命が途絶えた後も、脈々と続いている。(旅の蜃気楼 月山発・笠間 直)
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